月を捕らえるには、この身体はあまりに重すぎた。
虫の音に包まれ、昏い川面に身を浸しながら、義彬(よしあきら)は寒いということすらわからぬほど、
空っぽだった。
今も残るのは、血の赤。
鮮やかに生き抜いた命の、飛沫。
ただのひと太刀で、女は事切れた。義彬の情念は、それほどまでにすさまじく、だが瞬間、女の顔に
静かな笑みが刻まれてからは、行き場をなくし彷徨い始めた。
やがて、それは月に還った。
「──怪(あやし)か」
見るもおぞましく血に染まった着物は、かの女の亡霊と見紛うほどだった。重い刀はすでに抜く必要
もなく、抜き身で腕にぶら下がったのを、ただ構えるだけでよかった。
禍々しい紅い月が這う。義彬の若い頬には、夜露で濡れそぼったほつれ毛が張りつき、いっそう陰惨
な気持ちを引き立てていた。
「……ねね様」
それは、童女の声を出した。身をすくませて立ち尽くす、己を映した鏡のようで、苛立ちは憎悪に拍
車をかけた。
幾度、斬り捨てればよいのだ。もう嫌というほど斬り捨ててきた。そして今宵で、それは最後になる
のではなかったか。
義彬は今日、初めていくさ場以外で人を斬った。
「ねね様?」
「……ねね様。この先に住んでる、きれいなチヨねえ様。ちよも“チヨ”って言うの。同じ名前なの」
その名を。二度と聞きたくはなかったその名を、お前は口にするか。
ようやく手放してよいはずの感情が、再び、どす黒く渦を巻くのを、義彬はなす術もなく見守った。
己は武人だ。女にうつつを抜かすなど、まして情感に揺さぶられて大儀を見失うなど、絶対にあって
はならないことだ。
だから斬った。妻に娶ると本気で思った女は、他国から間諜のために放たれた“草”であった。
「その千代が、どうした」
足を踏ん張り、柄を握る手に力を込める。ぐらりと視界が歪むほどの、これが呪う、という情念か。
──斯様なもの、愚にもつかない弱者の抱くひがみと、信じて疑わなかった。
今は。
「ねね様と会いたい。ねね様、もう会えないって言ったけど」
何もかもが疑わしい。
前触れなく踏み込んでみれば、夜更けに旅支度をした女の姿。自国の情勢が外へ漏れ出してより半歳、
それは義彬が女と思いを通わせた、まさにその頃からであった。
通わせるだと。忌々しい。所詮は義彬の思い込みに過ぎず、おそらく女は、お館様の寵愛を受けそこ
ねたと知るや、目ぼしい武将へ鞍替えしただけなのだ。
影では、冷笑に伏していたか? ──カッとなり、瞬間、飛び散った命の色。
言葉の挟む余地などなかった。振り仰いだ女の眼差しが、分をわきまえたかのように穏やかで、義彬
にはそれで充分だった。
だのに、何故こうも気が逸るのだ。
悪夢は終わり、息の詰まる探り合いからも解放された。ここひと月ほど、女はひどく用心深さを増し
ており、いよいよあからさまな後ろ暗い気配に、義彬は深く眠れぬ日々が続いた。
そんな義彬をさも心配したように、甲斐甲斐しくしてみせる女の所作がまた、義彬の中にある純真な
部分を、日に日に深くえぐった。
「ちよはねね様が好き。ねね様は、月をつかまえることができるの」
臓腑の猛りを落ち着けてみれば、なるほど、童女は単なる紅を着た人の子だ。どこぞへ行方をくらま
そうとした女が、それを口にするほど気を許した幼な子。
よかろう、それなら暴いてみせるまで。戦を仕掛ける機をうかがう国があるのなら、むしろ返り討ち
にしてくれる。
堪えてもにじみ出る殺気が、童をますます怯えさせたのに気づき、抑えるのに苦心した。
「正直に話せば何もせぬ。お前はここへ何しに来たのだ」
「今日は満ち月だから、ちよも月をつかまえに来たの。ちよもねね様と同じようにつかまえたい」
「……月、とは」
「お空の月。水の面に映る、お空のお月様。ねね様はつかまえたり、飲み込んだり、戻したりできたの」
埒が明かない。お前も女も、もののけの類であった、とでも云うつもりか。苦々しく聞き流していた
が、あまりに真剣に訴えてくるので、義彬も徐々に、事の真相を見極めてやろうという気になった。
「ねね様はね」
満足げに笑って、童は逃げもせず、川辺から義彬に指示を出す。
「手でお月様をすくうの。そうすると、水の面から手桶の水にお月様が移ってるの」
冷たい川面に半身を沈め、いくら真白の月をすくい上げても、それは手元で黒く色を失い、だらだら
と力なく零れ落ちていく。
違う違う、と駄々をこねる童が、次第にうっとおしくなった。
「宝物持っていないの? ねね様は、大事な宝物が手に入ったから、お月様がつかまえられるって。
そのせいで遠くへ行かないといけないって。その時、お月様のつかまえ方を教えてくれたの」
苦渋の一つも浮かべずに、女は息絶えた。すべて包み込む眼差しを残して。
なぜそんな顔ができた。それほどまでに、己の使命に信念を持っていたか。或いは、義彬の身を滅ぼ
さんとする、そこまで固い意志を持っていたのか。
誰がため、何のために。
狂いそうなこの身は、尚も女一人にたばかられようというのか。
──あの時、流れ出たのは己の血ではなかったか。
「ねね様と会えないのはさむしいって、ちよは言ったの。そしたら、ねね様もよって。
本当はすごくさむしいけど、お月様が手に入ったから、ねね様は嬉しかったのですって。
月が10回満ちたら、ねね様の中からは新しいお月様が出てくるのよ。
本当は、ずっとここにいたいけれど、ねね様がお月様をつかまえたって知ったら、
みんな怒るからないしょで行かないといけないの」
どぶり、と身体が水音を立てるのを、人ごとのように聞いた。
“草”か、否か。どちらであっても、大局は変わらなかったに違いない。
「よくねね様は、ここで早くお月様に会いたい会いたいってお腹をさすっていたの。
お月様はお腹の中でどんどん大きくなるんですって。ちよもお月様が欲しい。お月様をつかまえたい」
結局、負けたのだ。女を愛した己自身に──信じきることも、手を取り合って走ることもできぬ、そ
れは決して大儀などのためではない。
なまなかな決意で、腹の括り方で。お館様のご信望を得て、何かを成し遂げようなどと。
まして、そなたを妻に娶ろうなどと。
千代。
それでも、喜んでくれただろうか。
愚かしい血の混じるその子を、月明かりの下でひっそりと愛で、あたため続けてくれていた、たおや
かな豪胆さ──見聞きするどの猛将の胆力も、千代のあの眼差しの前では、霞んで見える。
そうだ。そこに惚れたのだったな……千代。
重たく粘る川面に、いくら身を浸したところで、浅すぎて溺れることもままならなかった。
そなたらを斬り捨て、己はこれからどこへゆこうというのだ。
教えてくれ、千代。
生きねばならぬのか、このまま──。
揺れた水面が静まると、すくえなかったまろい月が、ゆらりと顔を覗かせた。近く、遠く、幻のよう
にあたたかな肌の色をして、それは義彬の心を明々と照らし、命に熱を灯した。
わかった、生きよというのだな。そなたに認めてもらえるその日まで。このままでは門前払いか、な
らば明日からは死に物狂いで生きよう。弾けたそなたの命の光に、負けない強さを──あの眼差しを受
け留め、微笑み返せるだけの深さを、逞しさを。
たくさんの手土産を、この現世でギリギリまで集めようぞ。
……ただ、一つだけ。
今宵は一人、このまますべてが枯れるまで、泣かせてもらえまいか。
≪ 了 ≫
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